

Interview
Vol.010
耐え抜く力が
引き出す力に変わるまで
昼馬 悠人
Yuto Hiruma
BIOGRAPHY
- 1998年
- 大阪府に誕生
- 2006年
- 水泳、習字、そろばんの習い事を始める
- 2007年
- 父親に誘いで初めてプロ野球観戦に行く
- 2008年
- 地元のソフトボールチームに入団し他の習い事を全部やめる
- 2011年
- 中学校入学を機に地元地域の硬式野球クラブチームに入団
- 2014年
- スポーツ推薦で高校へ入学し、野球部に入部。親元を離れて寮生活を開始
- 2017年
- 高校卒業も大学受験に失敗し浪人が決定
- 2018年
- 大学へ入学。バイトやサークルなど学生生活を謳歌
- 2022年
- オプテックス入社、国内営業としてNSS事業部へ配属
耐え抜く力が
引き出す力に変わるまで
NSS事業部 S&M課 昼馬 悠人
10号目を迎えましたRipple Workers Index。編集の岡井です。「今回はバリバリの体育会出身を取り上げたいと思います」。という前置きに、皆さんはどのような物語を予想されるでしょうか。汗まみれの強烈な日々をサバイブし、勝利をもぎ取ってきた、エネルギッシュで自己肯定感にあふれる主人公を想像されるでしょうか。
しかし陽が当たる頂上の陰に、幾千もの挫折や失敗が層を成しているのもまた体育会。今回は人格形成に大きな影響を与える思春期の大半を野球につぎ込んだ、NSS(Next Social Solution)事業部の国内営業、昼馬さんのお話しです。
NSS事業部は水質や環境・災害対策関連事業手掛ける、オプテックスでも比較的新しい部署です。すべてが整っているとは言えない状況の中でもがいた3年半。いま結果を出しつつある営業マンの今に至る背景とは。今回もじっくりお聞きしました。


Okai
昼馬さんのお仕事内容を簡単に教えてください。

Hiruma
私の主な取り扱い製品は「水質センサー」。工場や水処理施設、陸上養殖施設などの水質が適切に保たれているかを測定したり、遠隔監視したりするソリューションを提供しています。人手不足は水質を管理される業種でも例外なく深刻で、デジタル化やDX化を進めるための引き合いを多くいただくようになっています。
現在は国内営業で西日本エリアを中心に担当しています。週のうち2、3日はお客様のもとへお伺いして、案件の詳細な打ち合わせや関係強化に努めています。

Okai
NSS、これまでの経験から水質関連の営業として難しさを感じたことはありますか。

Hiruma
オプテックスは長きに渡って磨いてきた光学や電気的な技術に長けていますが、ここに「水の要素」が入ると途端に化学の知識が必要になってきます。
例えば工場で排水処理された水は、定められた基準値以内の水質にしてから排出する必要があり、そこで弊社の製品が活躍しています。しかし工場によって水に含まれる化学物質も異なるため、測定したい物質と弊社製品との相性を見極める必要があります。また水質の市場はpH検査の需要が多いのですが、これらは化学の基礎無しに対応することはできません。自身は化学にちょっと苦手意識があったので、その点はしばらく苦労しました。
ただ理系の実践的な知識が必要というよりは、お客様との共通言語を扱えるかが重要です。簡単な例でいうと「ティーピー、ティーエヌを測っている」と言われたら、「りん」と「窒素」だな。という感じです。現場に近ければ近いほど理系の方が多くなりますので、日常のやり取りの中で「話の分かる人」であることが大切だと思っています。

Okai
NSS事業部の営業スタイルに特徴はありますか?

Hiruma
私たちのセンサーやソリューションはニッチな領域に特化した製品が多いので、ご要望をすべて叶えることはできません。お客様にとってマッチするか適切に見極めて、オプテックス製品の提案に固執せずにメリットを生む提案を心掛けています。そのほうが無駄なお時間をいただくこともないですし、お互い幸せになりますから。
お互いの幸せを願う。という意味ではNSS事業部は人間関係や長期的な繋がりも大切にしていますので、いわゆる「THE営業」が好きな方には向いているかもしれないですね。
NSSで海外営業を担当する小寺さんと、カフェスペースで情報交換。

Okai
優し気な雰囲気の昼馬さんですが、実はバリバリの体育会出身なんですよね?
なんでも長く野球をやられていたとか。

Hiruma
小学3年生くらいの頃に父親に誘われて、初めてプロ野球観戦に行きました。それがなんとオールスター戦の、しかもダルビッシュ有投手が先発する試合で。引き込まれましたね。
家の近所には少年野球チームが無く、地元で唯一のソフトボールチームに入団しました。遊びの延長のようなチームでとても楽しかったです。5年生のころには中心メンバーになって。……今思えば野球人生最高潮を迎えました。

Okai
野球人生の最高潮、早すぎやしませんか。

Hiruma
「何をやってもうまくいく」そんな感覚でした。バットを振ればヒットになりますし、マウンドに上がればバシッと押さえる。大阪の小さな田舎町のチームが、堺市(大阪で2番目の人口を誇る)の強豪と渡り合っていましたから。それが自分にとっての成功体験。
そして中学では野球部には入部せず、地元の硬式野球クラブチームに入団しました。

Okai
硬式野球のクラブチームって、少年野球のエリートだけが集まってくるようなイメージです。

Hiruma
父が大学まで野球をやっていた体育会でして「やるのだったら本格的にやれ。野球で人生を立てるくらいの気持ちで」。とアドバイスを受けていました。正直そこまで深くは考えていなかったですけど、やるからには全力でやろうと。

Okai
チームに入ってからの野球生活はいかがでしたか。

Hiruma
やばかったです。まさに前時代のクラブチームという感じで、監督との関係も上下関係もとても厳しかったです。年上は絶対的な存在で「なんかおもろいことやれ!」みたいな弄りもありましたし、全学年が友達みたいだったソフトボール時代とはとてつもないギャップでした。
誤解を恐れずに言えば、監督は味方という存在ではなく敵。選手たちは常に心の中で監督と戦っていました。いかに怒られないようにするか。はたまた実力でいかに黙らせるか。

Okai
今はだいぶ落ち着いたと聞きますが、私の時代の育成あるあるでもあります。
なんだったんでしょうね、あれ。

Hiruma
練習は平日3日が17時~21時で、土日は9時~17時の1日練習。その中でも辛かったのが食トレでした。「体を大きくするために、米を沢山食べなさい」。という方針があって。
お弁当を持っていく日は、米専用のタッパーを持参することが義務付けられていました。自分の場合は1年時に1.3リットル、2年で1.9、最終学年で2.1リットルのサイズ。それを一食分として食べきらないといけない。
だから押し込んで食べる。はい、文字通り押し込みます。
ただびっくりすることに、慣れるものなんですよね。3年生の頃には限界になっている仲間のご飯もこっそり食べてあげていました。そこは選手対監督の構造で、同学年で一致団結です。笑
この日のお昼ご飯とかつてのサイズのタッパーを並べてみる。「ここくらいまで白米だけが詰まっていました」。

Okai
週5日の練習に食トレ。すさまじい。
お弁当など親御さんもサポートが大変だったと思います。

Hiruma
チームの活動を終えたら21時半頃に家に着きます。すると父が待っていて、そこからまた練習が始まります。真っ暗なので素振りやシャドーピッチングやってからお風呂。それが普通の日々でした。
クラブが休みの月曜と水曜は父とバッティングセンターです。通っていたマシンの設定は確か1ゲーム25球でした。それを9ゲームできるカードを、1日で3枚。

Okai
それだけの努力の先には「達成した!良かった!」という瞬間が待っていたのではないでしょうか。(期待に胸を膨らませる)

Hiruma
難しいですね……。良かったこと。うーん。
引退前の最後の大会でピッチャーを任されたのですが、割と良い結果が出たことでしょうか。ただその年の全国につながる大会では負けてしまっていて。出場常連チームだったので監督にものすごく怒られました。

Okai
……高校でも野球を続けようと思ったのは何故でしょう。

Hiruma
たまたまです。北陸の強豪校がチームメイトの勧誘のため視察に訪れた際に、投球練習をしていた自分にも声がかかりました。自己評価としては学年でも下手なほうでしたし、バッティングも良くなかった。あ、でも唯一投球フォームはマシだったと思います。
あとは中1の時に無理な練習をして肩を壊してしまって、ずっと筋トレと走り込みばかりしていました。そしたら中2冬にドカンと足が速くなって、走ることが武器の一つになりました。体格も、そんなには大きくなかったですけど、175cmあったのが良かったのかもしれない。
本社にて高校生時代以来に硬式ボール握ってもらった。ここではお昼休みにオプテックスの野球部がキャッチボールをしていることも。

Hiruma
今思えば父から離れて一人で野球をやってみたかったのもあったと思います。親元が嫌だったというわけでは全くないのですが、せっかく声をかけていただいたこともあって挑戦してみたいと思いました。
それから3年間は寮生活で、さらにさらに野球漬けの毎日になりました。ただ集まってくる選手たちのおかげでレベルは相当高くなりましたね。父からは離れたけど、生活は大きくは変わらなかったとも言えるかな。
高校ではピッチャーを諦めて外野に専念したのですが、残念ながら練習中に左足を骨折。靱帯も損傷してしまう大怪我を負いました。その影響もあって公式戦には一度も出場することが叶いませんでした。

Okai
大怪我を高校在席中に取り戻すのは簡単ではありませんね。
ところで野球人生の中で刺激を受けた人、いまでも尊敬できる人はいらっしゃいますか?

Hiruma
正直動物園みたいなところあるじゃないですが、高校男子の寮生活なんて。ただ自分たちが成長した点として「自然と周りが見える」とまでは言いませんが、個々の世界にだけとどまらない視野は身につけられたかなと思います。チームプレイが身に染みているというか。
左足首外果骨折、足関節外側靱帯損傷。全治三か月。

Okai
「バリバリの体育会」期間はここで幕を下ろします。
昼馬さんの人生感が変わったのは、実はその後なのですよね。

Hiruma
はい。大学受験をしましたが目指した学校の試験はパスできませんでした。また「今、行けるところに行くよりは、努力したうえで大学を目指してほしい」。という母親の意向があって浪人することを決めました。
ただそれ以前に高校3年間でものすごく学力が落ちていたことが大問題でした。何が分からないのか分からないレベルで。当時センター試験(※大学入学共通テスト)があったのですが、その英語の模試で「2点」をたたき出しました。
マークシートですから適当につけたほうが得点高かったかもしれないですよね。笑
逆に「これはトコトンやるしかない」と気合を入れて取り組む最中、オンライン予備校で出会ったチューターの方のアドバイスが見事にハマりました。
過去1年の予備校の授業を半年で終わらせる。という目標を一緒に立てて、計画的に、かつ全力で取り組みました。

Okai
全力を出せるのも能力のひとつ。ここには野球が一役買っているように思います。

Hiruma
実際にやったことは言葉にすると簡単なのですが『ゴールを決めて・細分化して・結果を出す』の徹底です。
そうしたらある日突然、問題の意図が理解できるようになって「勉強って楽しいぞ!」と思えたのです。なによりあらゆる教科やセクションで「このくらい分かれば大丈夫」という自分自身の肌感覚がつかめてきた。
2点だった英語も最終的には162点にまで伸びていました。

Okai
1年で80倍!
結果的に前年に落第した大学群より難しい学校に合格されました。

Hiruma
おかげさまで。大学では商学部を選んだのですが、2年生の時に国際ビジネス系のプレゼミに所属しました。プレゼンテーションの手法を英語で学ぶゼミだったのですが、今でも使える知識が身についたと思います。プログラムの最後に論文の提出が求められたのですが、生徒の中で最初に提出しただけでなく内容も高評価だったのは嬉しかったですね。
多分野球時代も「結果を出しに行くタイプ」ではあったのだと思うのですけれど、言われたことをただがむしゃらにやっていただけだったのでしょう。でも浪人時代にゴールへの到達手法や、課題へのアプローチの仕方が身につけられた。これは自分の中でも大きな出来事だったと思います。

Hiruma
大学野球ですか?いえ、野球とは全く関係のないバイトやサークルを謳歌しつつ、スポーツ観戦を楽しむようになりました。友人とスペインにサッカー観戦しに行ったのが大学生活で一番楽しかったことかな。

Okai
その後はオプテックスに入社を決められるわけですが、どのような出会いだったのでしょう。

Hiruma
自分たちのころには、情報収集はSNSが中心になってきていました。様々な就活アカウントがあって「ニッチトップ企業はココ!」という特集で知りました。
あとはなんとなく高校の経験から大人数の集団に埋もれてしまうより、一人の人間として活動したいと思っていました。手っ取り早く社会経験を積んで一人前になりたかった。だから「個人を尊重する」カルチャーを掲げていたオプテックスに惹かれました。

Okai
「一人前の社会人」とは、当時どのような人物像を思い描いていたのですか。

Hiruma
わりと今(入社4年目)の状態かもしれないです。任された仕事は基本的に一人でなんでもやって、チームの中にはいるんだけど、自身の判断で対応できるような状態。

Okai
ところでNSSは比較的新しい事業です。配属されたときはどのような印象でしたか?

Hiruma
化学が得意じゃなかったのもありますが、それ以上に「ここは新卒が来る場所じゃない」と思いました。もうカオス状態です。業界知識はないし、諸先輩方の癖は強いしで。笑
ただ今にして思えば、最初から現場近くで仕事をさせてもらえたおかげで、経験値は相当に早く貯まっていったのだと感じています。

Okai
そのうえ、ある程度仕事を覚えてきた中とはいえ、2年目でフロントに立つことになります。

Hiruma
先輩の藤本さんがバックアップしてくださるとはいえ、その時は「さすがに早くないか?」と思いました。客先で話すことが全く浮かんでこず、沈黙になる時間がつらかったのを覚えています。
今はたわいもないお話しを含めて、スムーズなコミュニケーションが心掛けられるようになってきましたし、当時沈黙の時間を過ごさせていただいたお客さんにも良くしていただいています。
そうして自分なりに試行錯誤しながら耐えていく中で、3年目くらいから段々とうまくいくことが増えてきました。
昼馬さんの日々は水と共にある。

Okai
営業の「うまくいく」とはどのような体験でしょうか。

Hiruma
まず社内ですね。敬愛する上長の田中さんに、勇気の出る良いレビューと評価をもらいました。「NSS営業部の潤滑油・ハブ的な動きができている」と。
諸先輩方は癖が強いと先ほどお伝えしましたが、中途入社の方も多く、業界経験が豊富でスキルが高い方たちばかり。それゆえに個々人のスタイルを既に確立されていらっしゃいます。一方で自分は周りを見て他の人がやりやすいように動くこと、例えばちょっとした情報提供や営業準備のサポートといった横の連携が習慣化されていたので、それが今の組織にマッチしたのだと思います。

Okai
周囲を見られる昼馬さんの個性が、組織力を発揮するファクターになってきた。

Hiruma
そうだと嬉しいです。ちなみに上長の田中さんもオプテックスでは数少ない体育会系の一人。「強化部系の体育会って社会の縮図みたいな部分あったよなぁ。あれを十代で経験するって、しんどいけど、経験としてデカいのかもなぁ」。と話されていました。
それを聞いて、なるほど、あの時のほうが辛いことが多かったよなと思いました。今のところ自分の人生のつらさのピークは野球にある。だから社会の厳しさに直面してもまだまだ耐えられる。そういった側面は、良い・悪いはさておいて、確かにあるんですよね。全力をつぎ込んだ野球の経験が、この頃になって効果が出てきたといえるかもしれないです。
取材中、お客様からのお問い合わせに対応する昼馬さん。

Hiruma
社外でも嬉しいことがありました。お客様の案件である工場に同行させていただいた際の出来事です。工場の方に対して詳しい説明が必要なシーンがあったのですが、商社の方にお任せすることなく前に立って対応を行うことができました。
そうしたら「何年目ですか?」「もうちょっと上の人かなと思いました」「また一緒に仕事しましょう!」って言っていただけて。後でお聞きしたらほとんど同い年の方でした。
これは入社後1年間のカオスを乗り切ったご褒美だと思いました。野球でも受験でも仕事でも、耐え忍んだあとにいいことが待っているということですよね。それがいつ現れるかは分かりませんけど。
あ、そういえばまだ次のお仕事の連絡をいただいてない!

Okai
経験値がレベルアップに反映されるタイミングの妙、月並みですがゲームとは違いますね。さて今後昼馬さんはどんな営業でありたいですか。また後輩にはどのようなアドバイスをされたいですか。

Hiruma
自分はお客様の良き相談役でありたいと思っています。個人的には営業の人こそ「相手に話してもらってなんぼ」です。一方的に伝える時って頑張るのは自分だけじゃないですか。そうじゃなくって、相手の方にもいかに喋って貰えるか。そっちのほうが難しいけど、うまくいったときの広がり感が全然違うんです。
先に詳細な情報を把握していたとしても、直接顔を合わせたらもう一回お聞きしてみます。すると「その件はそうなのだけどね、ちなみにね」。「ちなみに御社の製品、こんな使い方できるかもしれないよ」。って、新しい言葉を引き出せることがある。
自分の狙いだけで営業をしていたら1とか2のリザルトで終わってしまうけれど、一緒に話せば10に広がるケースが時々あるんです。だから後輩にアドバイスするなら、そういう関係づくりを大切にしたほうがいいと伝えたい。
「ちなみに」の先のほうが絶対に営業として面白いですから!

Okai
「ちなみに」から生まれる新しいニッチなソリューションと、昼馬さんならではの活躍に期待しています!

Hiruma
ありがとうございます。
僕はこれからも会社に依存する人にはなりたくないと思っています。それはもちろん転職がしたいとかそういう話ではなくて、「オプテックスの看板がないと仕事ができない人間」には絶対になりたくないということ。
昼馬というイチ人間として認められるように日々を積み重ねたいと考えています。

「やるしかない」状況になった時、正面から向き合えるだろうか。結果が出るまで数年かかるけれど、いや、もしかしたら結果すら出ないかもしれないけど、それでも自分やチームを信じて前に進み続けられるだろうか。そのようなことを思いました。まずは昼馬さんの濃密な日々に触れて、果たして自身のここのところの3年間はどうだったかな?と、振り返る勇気から一緒に絞り出してみませんか。
ちなみに編集担当も体育会出身で、日陰を構成する累々とした何かの一部。時を経た思わぬレベルアップに期待したいと思います。
企画・編集:岡井良文
ご意見・ご感想がございましたら、お気軽にお寄せください。
※本記事は2025年7月の取材内容で構成しています。